映画INNERVISON


映画INNERVISONを観た

先天的な視覚障害を持つ人物がSFアクション映画に挑戦するドキュメンタリー
正確には事実を脚色している部分がある。
しかし演出上そのことは伏せられて観るべき作品
本当はフェイクドキュメンタリー(mockumentary)に属するけど気にしないで見てもらいたい

視覚障害者福祉NPO団体内の企画から突如、映画を撮ることになった人物(先天性の視覚障害をもつ)が
さまざまな映像クリエータに教えを乞いながら、自分の撮りたい映画制作を進めることになった。
そんな過程を友人の映像作家が手伝うこととなりその友人視点で切り取られた
メイキングフィルムを通して映画作りを一緒に体験するこの映画の観客は
「映像とは何か?」という問いを突き付けられてしまう。
というお話。
視覚障害者が出演するというだけで
普通の映画では感じない事がたくさんあるのだが
そこは当然として、
僕らはどうやって映像を享受しているのか?
で鑑賞中何度か頭を抱えてしまった。

ストーリーは主にプロクリエータの元を訪ねながら進行する

脚本家に逢いに行き
視覚の無い世界をどう表現するかを議論したり
映画監督に逢いに行き
幽霊とゾンビの怖さの違いについて考えたり
集団芸術である映画においては
監督の仕事はイメージの担保であることを教示されたり
CGアーティストに逢いに行けば
画角や3D表現について悩んだり
ナレータがイメージ通りのセリフを読むまで
トライエラーしながらアジャストしていったり
それぞれ「映像とは何か」を考えさせられる
そして観終わった直後は疑問だらけで終了する。
そのあと一人で考えていると
見えてきた。
視覚は色々あるセンスの1種類であって
その影響度は大きいものがあるが、
人が映像(これはスクリーンとスピーカーという意味にとどまらない)
からもつイメージというものは
絵だけでなく
音や空間 気温、関係性、これまでの経験など
いろんな条件を総合に動員して生成されているわけで
自分も
 実は見ているようで見ていないかもしれず
 見ていないようで見ていることもある。
これでタイトルの意味が良くわかった。
生まれて一度も見たことの無いものであったとしても
それ以前に別の形の説明を受けたり、触ったりするうちに
出来上がってくるイメージがあるはずで
それを思い浮かべてイメージは構成される。
それは視覚障害の有無による精度の差こそあれ
内部に立ち上がるイメージの差にはあんまり影響が
無いかもしれないと思った。
見たことがあると思っていてイメージできているとしても
それはひょっとしたら
隣にの人と結構違うものなのかもしれない
とかだんだんと今まで信じてきたものが怪しくなっていく感覚に襲われた。
ちょうどキュビズムCubismeに興味を持っていたこともあり
突然つながってきた。
ひとつの視点ではなく様々な視点から眺めたものの形を
ひとつの画面に収める手法だが
見えたものを正確に再現する事よりも
受けたイメージを2D に落とす事の面白さに気づいた。
今回は目の見えない人の描く映画というモチーフだが
どう感じたかを何かに落とすときに
何かハッとするものを見るものに対して与える。
人のセンスはものすごい可能性を秘めている。

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